1952年 | |
IFAA発足 初代会長 甲府田敬三郎氏 チャーターメンバー:甲府田敬三郎氏、力丸氏、スティーブン土井氏、石田日夫氏 IFAAは国内海外を問わず、農業者をサイドから援助。 Kokusai Noyukai Japanの駐在所を設ける。 農林大臣 石黒篤氏、米国カリフォルニア州知事 Mr.EarlyWarren この二名の協力により農業研修ブログラムが始まる。 スポンサーは、2年間カリフォルニア大学普及部が担当。 第一回農業研修生渡米。 |
1954年 |
|
農業労働者プログラムになりつつあるので農業実習プログラムに変更。 |
1960年 |
|
INTERNATIONAL FAMERS ASSOCIATION FOR EDUCATION(IFAE)発足。 |
1964年 |
|
南米から始めてブラジルが参加。 |
1965年 | |
17カ国から研修生の受け入れを始める。ヨーロッパ(イギリス、フランス、デンマーク、ルーマニア、オランダ、スイス、ドイツ)、アジア(日本、中国、韓国、フィリピン、インド)、南米(ブラジル、アルゼンチン、ペルー、チリ、エクアドル) |
1977年 |
|
IFAEがMr.Akira FukudaとMr.Chris McNultyを雇用。 |
1981年 |
|
IFAAは、Mr.Akira Fukudaを雇用。(9月) |
1982年 |
||||||||||||||||
IFAEから日本のプログラムが分かれる。
|
1983年 |
|
ハリー福留氏、理事になる。 |
1984年 |
|
IFAE(ファームビューロー)のプログラムは消減する。 |
1985年 |
|
IFAAはブラジルとプログラムを始める。 |
1986年 |
|
南米訪問―Mr.Kee Kitayama&Mr.Akira Fukuda |
1987年 | |
中国(4名)とブログラムを始める。 北海道国際農友会が社団法人になり、北海道国際農業交流協会と正式に道庁の配下になる。初代会長 長沢悟氏。 IFAAは、Mr.Paulo Satoを雇用。 |
1988年 | |
中国(5名)プログラムは、2年間に及んだが中止となる。 ボリビア(サンファン農牧組合とオキナワ農牧組合から2名)から初めて受け入れる。 |
1989年 | |
石松前会長とインド政府と研修生事業の問題を語る。 3月で国際農友会が行政改革のためになくなり、農林省(1年プログラム)、外務省(2年プログラム―別名、派米青年)が合併し、国際農業者交流協会を設立する。 IFAAは、国際農業者交流協会の申し出があり、合併のためプログラムを閉じた。 外務省の以前のブログラムがシアトル、ワシントンに事務所を持っているのでそこを通して来るようになった。 IFAAは、Mr.Takenori Usudaを雇用(6月) IFAAは、Mr.Chris McNultyを雇用(10月) |
1990年 | |
IFAAは、Mr.Julio Ezawaを雇用。(11月) Mr.Paulo SatoがIFAAを退職。 |
1991年 | |
IFAA会長Mr.Kee Kitayama死去(12/22) |
1992年 | |
Mr.Takenori UsudaがIFAAを退職。 |
1995年 | |
Mr.Yoshi Uchida氏がIFAAの理事になる。 ブラジルのコチア農業協同組合とスールブラジル農業協同組合倒産。 IFAAは、Mr.Shotaro Haraを雇用。(10月) |
1996年 | |
FRI(Fellow Rancher Intenational)21名来る。 ハリー福留会長―北海道国際農業交流協会の招きにより、札幌で開かれた農業者フォーラムでアメリカの花卉園芸の状況と将来について講演。新得農協でも講演を行う。(2月) 南米訪問 ブラジル(ブラジル農友会、実習生OB農場見学、西村農工学校)、パラグアイ、ボリビアを周り、パラグアイ日系農業協同組合中央会と イグアス移住地訪問。 ハリー福留会長、福田晃氏、ジュリオ江沢氏同行(7月) ブラジル サンパウロでブラジル国際農友会のMr.MarioYamashitaとMr.Car1os Ohtsubo、Mr.Edgar Sasaki ブラジリア市―ウベンディア―イトイタバ(FRI Office)、Dr.Jacy Pimenta―Pompeiaへ行く。 フレスノ会の会議に出席―フオズデイグアス―西村氏の友人でパラグアイの農協との橋渡しをしてもらう。 ―ブラジルのみでMr.JulioEzawa氏は、米国に帰国。 パラグアイ パラグアイ農業協同組合中央会(会長久保田洋史氏)と将来のパラグアイのプログラムについて会談。 イグアス移住地、アスンシオン近郊農業を見学。 ボリビア サンファン移住地とオキナワ移住地を訪問して各農業協同組合と会談する。ハリー福留会長は米国に帰国。 ペルー JICAの小金丸梅夫氏の援助でペルーのプログラム開拓をする。 日系協会、Dr.PedroMakabe、Mr.Jacinto Ono、Universidad National Agraia La Mo1ina、 Dr.Maezono Yamashita(Vice President)、Conafrut農協組合長―Mr.Carlos Fukuda Satipo市より市の職員が来訪。 IFAAは、Ms.Ayako Watanabeを雇用。 |
1997年 | |
パラグアイ日系農協中央会より学生移住連盟のOBの選考を得てパラグアイから初めて研修生を受け入れる。 (Mr.Hiroyuki Hara―イグアス移住地より) JICAの援助により、ペルーから初めて研修生を受け入れる。 (Satipo市からMs.Ana Maria) IFAAのOfficeの隣を購入して拡大する。 10月に福田晃氏が日本訪問の際、鹿児島の農業大学校に寄り、説明し、2名の研修生を選考する。 |
1998年 | |
IFAA会長Mr.Harry Fukutome死去(2/14) 3月の理事会でMr.Keishiro Uchidaが会長になる。 Mr.Akira FukudaがPresident(OEC)に兼事務局長になる。 鹿児島県立農業大学校から2名、IFAAのプログラムに初参加。 北里大学から研修生の参加がなかった。 |